受け取るもの 続 佐治右衛門農園 拓真さん

以前何度かお話を聞かせていただいた、佐治右衛門農園の斎藤家。この日は親子で参加されていた。息子の拓真さんは唯一20代の参加者。岩崎周辺の若い農家さんにも参加するように声を掛けてみたが、集まらなかったそう。

60代、70代のお父さんたちが、縄を括る手順を伝える。かつてビニールロープがあちこちで売られるようになる以前、藁で縄を結う作業をしていたお父さんたちは、もう身体に動きが染み付いている。
言われる通りやってみるも、放り投げても大丈夫なくらいしっかり結ぶのは難しい。

鹿島様は今まで、作業に参加する人が各家庭からそれぞれ一人ずつ招集する形で続けられてきた。これだと極端な話、家長が亡くなるまで鹿島様を作ることがない。
拓真さんはまだ なんならお父さんが最近鹿島様作りに関わり始めたばかり。来なきゃいけない訳じゃないんだけど、なんとなく、なにか関われるんじゃないかと思って参加したそう。

年配の人らがなにを受け渡そうとしてるのか、まだ若い僕らにはわからないこともあるだろう。でもそこに居ることで、顔が見えることで、なにかを手渡してもらえるかもしれない。物か、技術か、それとも祈りに近いなにかか。


鹿島様を作り続けることは、年々難しくなっている。いま作り方を教えている人はもう70代、80代になっているし、皆が歳を重ねていける訳ではない。
藁だって、かつては各家から自然と集まっていたが、今は専用の田んぼを用意して、日取りを決めて進めないと藁を確保できない。いままで生活の中で必要だった藁、縄綯いの技術ももう資材売り場に行けば数百円で済んでしまう。
実際、続けるのは難しい。お父さん達もわかっている。


作業終わりに休憩するお父さん達が言っていた。鹿島様は神様だがらなぁ、作らない訳にもいがねべ。

生活が変わっても、農業或いは食物は必要。美味しい方が幸せだし、健康な方が幸せ。でもそれを実現する方法は日々変わりづけている。
理由がともあれ今の形の鹿島様を作り続ることが難しくなったときに、ぱたりと辞めることになるのか。それとも、その時に生きる人達にとっての祈りの形を作ることになるのか。